シンディ・ローパー「お酒を飲んでね!福島の。とっても美味しいから!」

3月11日に日本に来日しライブを行ったシンディ・ローパーさんが12日、日本外国特派員協会で開いた記者会見に応じていましたが、その内容をNHKが全文を公開しています。
「あなたがもし倒れたら、私が受け止めてあげる。何度も、何度でも」というシンディ・ローパーさんの歌の歌詞にあるように、会見で

歩いていて、前の人が転んで倒れたとき、どうするか?ということです。
立ち止まって、立ち上がるのを手を貸すか、

それともその人を踏んで歩くのか、ということです。

私は転んだ人に手をさしのべるような人間になるように育てられました。

では、よい一日を。

と締めくくっています。

シンディー・ローパー記者会見 at日本外国特派員協会:全文掲載です | NHK「かぶん」ブログ:NHKシンディー・ローパー記者会見 at日本外国特派員協会:全文掲載です | NHK「かぶん」ブログ:NHK

シンディ・ローパーさんは阪神・淡路大震災の際にも寄付やチャリティーを行っています。
今回も彼女は誤解も多い放射能の不安がある日本に来日してくれたり、「東北のものを買ってお金を動かして支援しよう」と海外に呼びかけてくれています。
海外の著名なアーティストが日本の復興を祈ってくれることは、本当にありがたく、ずっと恩を忘れられないですね。

NHK NEWS WEB シンディ・ローパーはワスレナイNHK NEWS WEB シンディ・ローパーはワスレナイ

「世界ではさまざまな困難があり、どんな人も困難に直面するが、でもだからこそ、お互いがお互いのために存在しているし、お互いが支え合っていけば必ず困難は乗り越えられる」

Q)去年の3月、原発事故への不安が広がるなか、周囲からはアメリカへの帰国を促されたと聞いています。それでも日本に残ろうと思われたのはなぜですか?

「私は安全でしたし、よく分からないけれど、それが正しいことだと思いました。バンドのメンバーもサポートしてくれましたし、私たち自身、危険だと思っていなかったんです。毎日ニュースで、数日前の悲惨な状況が流されていました。そういうサイクルの中で、音楽という気分を変えるものがあることはよいことだと思ったのです。音楽というのは、癒やしの効果があります。そういう方向で私は助けたいと思いました。厳しい時期に、音楽はとても役に立つものです」

Q)原発事故は怖くありませんでしたか?

「それは怖かったですよ。みんなそうですよ」

Q)怖いなかで日本に残ることは、とても大変なことではなかったですか?

「(日本に残ることは)正しいことだと思いました。勇気だとは思っていません。もし、ここで帰ってしまったら、よくないと思ったんです。もう日本にいましたし、これから日本に行こうという話ではありません。だから、日本に残ることは正しいことだと思いました。バンドのメンバーもOKしてくれたので、一緒にいることにしました。私たちの滞在は短いものです。どちらにしてもいずれ、私たちは日本を離れます。しかし、日本の人たちはずっとそこにいるのです。だから日本にいるときに、何であれできることをしようと思いました。夫からも言われたんです。世界じゅうには、ひどいことがたくさんある。どんな人も難しいことに直面する。でも、だから、お互いがお互いのために、存在している。私たちはお互いを支える必要があります。そうすることで私たちは、困難を乗り越えることができるのです」

Q)今回、東日本大震災から1年になるのにあたり、改めて来日しようと思われたのはなぜですか?

「私は日本に来ることが”いいこと”だと思ったんですよ。コンサートの様子を被災した県の映画館で無料で提供する。すごくよいアイデアだと思ったんです。被災した子どもたちにも会いに行ければと思っています」

Q)震災1年の公演では、どのようなメッセージを伝えることにしていますか。

「被災した人たちに『あなたがたは、忘れられていませんよ』ということを伝えたい。そして多くの人たちに、被災地や子どもたちのために、それぞれ何ができるのか、私が来ることで思い出してほしいのです」
(最後に日本語で)「ガンバッテ」「ワスレナイワ」

シンディ・ローパーさん”買って支援を” NHKニュースシンディ・ローパーさん

東日本大震災から1年に合わせて来日している、世界的なポップスターのシンディ・ローパーさんが、12日、海外のメディアに向けた記者会見で、「福島県をはじめ被災地で生産されたものを積極的に買うことで、経済的な支援をしてほしい」と呼びかけました。
去年、東日本大震災が起きた日に来日し、その後コンサートを開いたシンディ・ローパーさんは、震災から1年に合わせて再び日本を訪れ、12日、東京に駐在している海外メディアに向けた記者会見に出席しました。
会見でローパーさんは、宮城県石巻市を訪れた際に、処理が進まないがれきの量に驚いたことや、福島県に住む友人からお菓子を贈られたとき、「放射能に汚染されていないので安心して」と言われたことにショックを受けたことなどを話しました。
そして、「福島をはじめ被災地は孤立している。被災地の商業や経済を活性化することが大切で、福島など被災地で生産された物を皆さんで積極的に買うようにしましょう」と海外のメディアに呼びかけ、自身も被災地のことを忘れずに活動を続けていく考えを示しました。

シンディ・ローパー熱唱 「忘れないわ」被災地にエール – MSN産経ニュースシンディ・ローパー熱唱 「忘れないわ」被災地にエール - MSN産経ニュース

 11日のライブで被災者への最高のプレゼントになったのは、7曲目の「忘れないわ」だろう。1969年に米歌手、ペギー・マーチがヒットさせ、「ワスレナイワ アナタヲ」という歌詞が繰り返される。「米の日本食レストランで働いていたときにギタリストから教わった」という。

 最後は86年のヒット曲「トゥルー・カラーズ」を、「福島へ、そして被災地へ。愛と勇気を送りたい」と告げてから歌い始め、終える直前には片手を高く突き上げてピースサイン。シンディらしいパワフルなエールを被災地に送った。

シンディ・ローパー”買って支援を”
2012/03/03

2012/03/12

【震災】シンディ・ローパーさんが復興支援を訴え(12/03/12)

2011/04/24
Cyndi Lauper-News&True Colors-2011NHK大阪ホール

シンディ・ローパー – Wikipediaシンディ・ローパー - Wikipedia

1995年に阪神・淡路大震災の被災者へ寄付。1996年2月3日に阪神・淡路大震災のチャリティーとして行われた生田神社震災復興節分祭にて「豆まき神事」に参加した。

1989
シンディ・ローパー 恩人と涙の再会

シンディ・ローパー – Wikipediaシンディ・ローパー - Wikipedia

シンディ・ローパー 恩人との再会
1989年、日本の番組に出演した際に
ニューヨークの『ミホ』というジャパニーズレストランで働いていたことがあったと話した。
いきさつは定職もなくブラブラしていた時にそのレストランを経営している鈴木サクエさんという日本人女性と出会い、「それじゃ駄目だから自分の店で働きなさい」と誘ってもらったとのこと。
シンディに限らずまだ活躍していない色んなアーティスト達を助けていた人であった。
番組は内緒で探し出し、シンディの来日とは関係なくたまたま偶然に諸事情で帰ってきていた鈴木さんとスタジオで再会を果たした。
シンディは感激のあまり歌う前に涙ぐんでしまった

最後にどうでもいいことですが、

Girls just wanna have funをリリースしたときには、ビデオの中でありとあらゆる国籍の女性が女性の権利を歌ってくれるよう自分の力の限り腐心しました。 曲には女性の置かれている立場を変えたい、支援という気持ちを込めていたのですが、日本に来たら「ハイスクールはダンステリア」にタイトルが変わっていました。

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/800/112997.html


大丈夫。私が買っているCDの中の歌のタイトルはGirls just wanna have funになってます。

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