最近の事件を見ていると、どの事件にも色んな形の「愛」が存在していたか、それらが欠落したり崩壊した末に起きている事件のように思えてならない。
「道徳心」や「思いやり」といった社会性の概念は、知識や経験から成り立つものですが、それらには例えば他人を尊ぶ心や敬う心や想う心が伴って行動がなされると思う。
またそれらは親しき間柄ならなおさらの事だ。
「親が子を想う心」「子が親を想う心」「恋人や夫婦で互いを想う心」「友達同士の互いを想う心」
これら全てをまとめて表すと「愛」がそこにあるのだと思う。
なにをキレイ事を言っているのかと自分でも思うけれど、やはり人間が他人を想う時何かをするときには、必ず「愛」は存在する。
しかしながら、他人に投げかける愛の量には限りがある。
少し前に「愛の細分化」を考えた事があるけれど、どうしても人生を生きていく上で、愛する対象が増えていくために、愛の細分化がされ投げかける愛が小さくなる時があるのではと。
まぁ確かに「愛」自体、形の無いものであり、それを確かめる術は無い。
その上で人間の二面性、全ての感情や行動には必ず裏表や隣り合った感情や行動があるように思う。
「笑い」は楽しい時に笑顔になる感情。
しかし、お化け屋敷やジェットコースターで「楽しい」と笑う人もいる。
「怖い」体感を「楽しい」と感じ「笑い」が生まれている。
実際、猿が笑ったような顔をするときは怖くて威嚇している時なのだそうだ。
人間にどういった経緯でそれが関連づくのかは知らないけれど、そういう本能的な感情があるのかもしれない。
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