最近の事件に様々な「愛」の欠落や崩壊を見る。

最近の事件を見ていると、どの事件にも色んな形の「愛」が存在していたか、それらが欠落したり崩壊した末に起きている事件のように思えてならない。
「道徳心」や「思いやり」といった社会性の概念は、知識や経験から成り立つものですが、それらには例えば他人を尊ぶ心や敬う心や想う心が伴って行動がなされると思う。
またそれらは親しき間柄ならなおさらの事だ。
「親が子を想う心」「子が親を想う心」「恋人や夫婦で互いを想う心」「友達同士の互いを想う心」

これら全てをまとめて表すと「愛」がそこにあるのだと思う。

なにをキレイ事を言っているのかと自分でも思うけれど、やはり人間が他人を想う時何かをするときには、必ず「愛」は存在する。

しかしながら、他人に投げかける愛の量には限りがある。

少し前に「愛の細分化」を考えた事があるけれど、どうしても人生を生きていく上で、愛する対象が増えていくために、愛の細分化がされ投げかける愛が小さくなる時があるのではと。

まぁ確かに「愛」自体、形の無いものであり、それを確かめる術は無い。

その上で人間の二面性、全ての感情や行動には必ず裏表や隣り合った感情や行動があるように思う。

「笑い」は楽しい時に笑顔になる感情。
しかし、お化け屋敷やジェットコースターで「楽しい」と笑う人もいる。
「怖い」体感を「楽しい」と感じ「笑い」が生まれている。

実際、猿が笑ったような顔をするときは怖くて威嚇している時なのだそうだ。
人間にどういった経緯でそれが関連づくのかは知らないけれど、そういう本能的な感情があるのかもしれない。

実は「愛」は「怒り」に、とても近い感情なのではないかと思う。

例えば好きな人が出来る。
好きな人と話をしたい。
好きな人に話しかける事が出来ない。
ジレンマが起こり、そんな自分に「怒る」

好きな人と付き合い始めた。
ずっと一緒にいたい。
でも最近恋人がそっけない。
誰かに恋人を取られるのではないか。
独占できないことに「怒る」

恋人と別れてしまった。
ある日、街でバッタリ、元恋人に出会う。
元恋人は別の人と歩いていた。
それを見て悔しくて「怒る」

それは「悲しい」とか「淋しい」という感情なのかもしれない。

しかしそれらは「愛する事で生まれた苦しみ」の感情なのだ。

愛は時に「怒り」や「憎しみ」や「嫉み」を生み出す。
愛は慈しみや思いやりの感情であるはずなのに・・・だ。

多くの人間関係のもつれによる事件は、こうした「愛の二面性」が引き起こす事が多い。

しかしながら、ここ最近の事件を見ていると「歪んだ愛」であったり「愛が見えてこない」事件がある。

「誰でも良いから殺したかった」と母親を殺して首を携えて警察に自首した高校生。

自分の子供を再婚相手が捨てろと言うから捨てに行った母親。

赤ちゃんポストに3歳児を置いて行った父親。

それらの人たちのまったく常軌を逸脱した行為に、何故そうなってしまったのかとか、そうなる経緯や想いが理解出来なくて混乱してしまっている自分がいる。

そういう人間を作った社会が悪いとも思えないし、親の教育が間違っていたとも思えない。

我慢が出来ない子が多いのかと思いつつ、我慢に耐えた結果なのかとも考えられる。

自己愛に溺れ、自分の思い通りにならないと済まされない感情であったのか。

こういうのを見ていると、とても怖い。
分からない事、理解できない事がとてつもなく恐ろしい。

苦しむ事は悩む事。

『煩悩(悩みや苦しみ)の氷が多いほど、悟りの水もまた多い。』

悩みの問題の解ける日は来るだろうか。


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EXCERPT:

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