パンチパーマ生みの親の理容師が75歳で亡くなる。

パンチパーマを考案した北九州市小倉北区紺屋町、「ヘアサロン永沼」の理容師、永沼重己さんが75歳で亡くなりました。
26歳で独立した当時、パーマをかけるためのヘアアイロンは棒の先端部分が細い円柱状でパーマのかかりが弱かったそうですが、永沼さんは独自に鉛筆のような六角形に削る改良をし、角の立ったアイロンは髪をはさみやすくパーマも強くかかるようになったそうです。

当店は父親が理容師から美容室に転向したため、理容系の仕事も目にしましたけれど、アイパーとかパンチパーマのかけ方は目にしたことはないですが、基本通常のパーマと工程は変わりません。

アイロンの操作でパーマをかけるのですが、アイロンは高温になるので地肌に触れないよう巻くのは大変で相当の技術が必要でしょうね。

顔剃りも美容師は女性に対しては化粧の延長上で施術出来ますが、アイパーやパンチパーマに関しては規定がなかったように思います。
アイロンによるパンチパーマやアイパー(アイロンパーマ)は出来ないというより、美容師にパンチパーマという需要が無かったため技術は必要としなかったんですね。

美容師法にもあるように『この法律で「美容」とは、パーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により、容姿を美しくすることをいう。』とあり、美容師はロッドを使ったパーマを発展させてきた経緯があります。
また、ストレートパーマでもカールを付けるために毛先にコテを当てることもありますし、デジタルパーマというのは加熱によるカールを付けやすくする技術となります。

訃報:永沼重己さん 75歳=パンチパーマ生みの親- 毎日jp(毎日新聞)訃報:永沼重己さん 75歳=パンチパーマ生みの親- 毎日jp(毎日新聞)

 髪形の「パンチパーマ」を考案した北九州市小倉北区紺屋町、「ヘアサロン永沼」の理容師、永沼重己(ながぬま・しげみ)さんが3日、75歳で亡くなった。若いころ、ヘアアイロンを改良してパーマのかかりを強くし、黒人の髪形をヒントに編み出したのが「パンチパーマ」だった。永沼さんが試行錯誤を繰り返して考えたこの髪形は瞬く間に「画期的」と評判を呼び、全国に広まる大人気となった。
 19歳で地元・小倉の理容師に弟子入りし、26歳で独立。当時、パーマをかけるためのヘアアイロンは棒の先端部分が細い円柱状で、パーマのかかりが弱かった。そこで仕事を終えた夜に自らやすりで削り、鉛筆のような六角柱にするなど改良を重ねた。角の立ったアイロンは髪を挟みやすく、パーマも強くかかるようになった。

 永沼さんはこれを「エッヂアイロン」として実用新案登録。「これ以上ない髪形」の意味を込めて「チャンピオンプレス」と名付けたが、全国に広まるうちにいつしか「パンチパーマ」と呼ばれるようになったという。1970〜80年代には、プロスポーツ選手や若者に好まれ、地元でも小倉祇園太鼓など夏祭りの時期には客が増えた。永沼さんは「男性的な強さがあるヘアスタイルだからでしょう」と話していた。
 髪の多い人だと一度に巻くのは約600回。アイロンの温度は160度近くになり、地肌に触れれば大やけどだ。「人は真っすぐなものは曲げたいし、曲がっているものは伸ばしたい」と語る永沼さんは、細心の注意と確かな技術で髪を巧みに巻いていった。
 08年に大病を患ったが09年に職場復帰。亡くなる2日前の今月1日まで店に立った。翌2日は店が休みで趣味のカメラを楽しんだが、3日朝に眠るように亡くなっていたという。最後に撮った小倉城の桜の写真は仏前に飾られ、ひつぎには仕事で愛用したベスト2枚が入れられた。妻房子(ふさこ)さん(70)は「仕事が大好きで最後まではさみを握っていた。研究熱心で本当の職人だった」と話した。

パンチパーマ – Wikipediaパンチパーマ - Wikipedia

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