さだまさしコンサート【2006】

関連リンク:さだまさしコンサートのさださんトーク集【CUTPLAZA Daiary】

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さだまさしコンサート【2006】

今日はさだまさしさんのコンサートに行ってきました。
いやはや楽しかった。さださんのトークは面白い。
ではなかった、さださんの歌は素晴らしい。
さださんのコンサートでの魅力は歌もさることながら、歌の合間のトーク。

今回もTomoが覚えられた限りを書いておきます。
途中、地名とか難しい話が頭に入らなかったので間違っている事は判っていても思い出せず書けませんでした。

というわけで「さだまさしトーク集」です。

どうも~、さだまさしでございます。
いや~、なんだか爽快な、なにか吹っ切れたような気分でございますね。
日本も、”WBC”っていうんですか?
日本の野球チームが優勝してナンバーワンになったわけですが。

アメリカも、自滅行為っていうんですか?
自分の所に有利にルールを作っておいてそのルールで自分の首を絞めてしまうという・・・

それに韓国にも申し訳ない気がしますよね。
あっちは2回先に勝っているのに、運良く準決勝に登れた日本に敗れるなんて。

まぁ、勝ったからこうやって笑顔で言えるんですけどね。
勝ったもの勝ちという事で。

最初の国際試合という事で、これからドンドン意見を取り入れて段々と良い物にしていくんじゃないでしょうか。

こっちに(愛媛に)来る時、6-5で飛行機に乗り込んだから不安でね(笑)
でも機長さんもそうだろうなってわかっていたんだと思いますよ。
離陸ギリギリまで(WBCの試合を)見せてくれて。
福留が打ってくれて、これで安心していられたけどね。


著作権物のホームページ掲載についてさだまさしオフィシャルサイトより
の「さだコンサートのレポートについて」に基づき、『さだまさしコンサートツアー「とこしへ」』の最終日・4/21(金) 沖縄コンベンションセンター劇場まで以下のトーク集の観覧を停止とします。

ちなみに上の「WBC」物は、時事の話であることから、それに当たらないということで、観覧可能にしてあります。

4月26日追記:
『さだまさしコンサートツアー「とこしへ」』が終了に付き、以下のTomoの記憶でのさだまさしさんのトーク集を書いた物を公開します。

(歌が3曲終わって)

今日はこんな感じでお送りしております。
今日はずっとこんな感じ。

(いったん曲が終わったので遅れたお客さんが入ってくる。)

いらっしゃいませいらっしゃいませ。
本日は6時からコンサートをお送りいたしております。
どうぞごゆるりと、お席をお探しくださいませ。

あそこにも、ここにも席が空いております。

しかし前もって申し上げておきますが、先ほどの曲で1部目の半分が終了いたしました。

きょうは一旦休憩を入れますよ。
僕もこのくらい続けてくると、みんな同じように歳をとっていきますからね。
もうこの歳になってくるとね、間挟まないと続けられないのよ。

バイオリンをやっていると、オーケストラの人からも同じ職種として歓迎してくれるのはありがたかったですね。
山本直純って指揮者をしていた人とも仲良くしていたのですが、良い人でしたよ。

「良い人でした」って過去形になっているのは、このあいだ亡くなってしまったんですね。
日刊スポーツ・訃報・山本直純さん
山本直純 – Wikipedia

っで、この直純から、って呼び捨てにしてしまうんだけど、そのぐらい仲良くしていた。
直純から「おい、25分の歌を作れ」って言われたんですね。
「いやいや歌なんてせいぜい3分くらいですよ」
そう答えたんですが、「そんなこと誰が決めたんだ。歌に制限なんてあるのがおかしいんだよ。作れ。」
っで、「それで日本中の親父を泣かせる歌を作ってくれないかな」

そう言われて作ったのが『親父の一番長い手紙』なんですが。
しかし、長い歌を作るのは相当なエネルギーを使うんです。
ただ長くするならサビを繰り返せばいいんですけど、そうはいかない。
それで出来あがったのが、ご存知でしょうか、12分半なんです。
そう、ちょうど25分の半分なんですね。

(ここで前のほうで拍手)

なに?聞きたい?じゃあコレで1部終わりますから。

(一部終わり。休憩10分挟んで2部目スタート)

おかえりなさいませ、おかえりなさいませ。
これからご覧になられる方もいらっしゃるでしょうが、今日は静かな曲を用意しています。
ゆっくりと眠りにつくことが出来ますから。

僕は長崎から音楽の道を進むためバイオリンを習う為に東京に出てきました。
長崎から東京までその当時約35時間かかったのね。
実家になかなか帰ることが出来ない距離です。
35時間。今じゃ、この時間で通うとしたらブラジルとかに行かないといけない(笑)

それで葛飾の中学に通うんだけど、その3ヶ月間、僕は一言も口をきかなかった。
僕だって黙っている時はある。
(会場笑い)

なんで黙っていたかというと、言葉が通じるかどうかを伺っていた。
嫌じゃない、訛りを笑われるの。
田舎者にとって一番嫌な事は、自分の言葉を笑われることです。

「雨が降る」って、ああ、今日も雨が降る中お越しいただきましてどうも申し訳ないです。
お天気は俺のせいじゃないんですが、ごめんなさいね。

っで、「雨が降る」って事を長崎では「あの降る」
って言うのね。
「あの降ったと」
なんて言った時にはあれよ。
『はぁ?「あの降る」??飴は降らない。降るのは雨~」
ってからかわれますからね。

っで、「佐田君、一緒に帰りましょう」一番に声をかけられたのが『木根川橋』っていう歌に出てくるのりちゃんて、勝田範康と今でも月に何回はいっしょに飲んでる友達なんですが。
こいつのあだ名が通称「発作マグナ」。すぐキレるって評判だったから、よしこいつと仲良くなっておこうってんで、
「そうですね、いっしょに帰りましょう」
って、一緒に帰ったんだ。
けど、のりちゃんはおかしいんだね。東京はこういうものなのかと思った。
のりちゃんは僕の前を振り向かずに歩いて行くのね。

のりちゃんはぼくよりも体がこう大きいから、ぼくなんか「まってぇ」って小走りでついて行く(笑)

っで、「佐田君」って急に振り返ったからビックリして。
っで、何かと思ったら、「佐田君。君は、ベトナム戦争をどう思いますか」と聞かれた。
東京はおかしなところだと思ったね。
「戦争はいけないと思います」
「そうですか」

っで、またズンズン先に歩いて行く。

そしてパーマ屋の前で止まってなんだろうなぁと思っていたら、
「佐田君、ここが僕の家です」
「そうですか」
そしたら、
「さようなら」
やっぱり東京はおかしなところだと(笑)

後で聞いたんだけれど、のりちゃんも東京をしょっているし、長崎から1人で出てきた俺を「えらいやつだ」と思ったんだって。
だから難しい話をしようと思ったら、「ベトナム戦争」しか思い浮かばなかったと(笑)

『木根川橋』には通称「ロボ」っていう先生がいた。
動きがまるでカクカクとロボットみたいだから、ロボ。

この先生も良い人でね。
過去形なのは昨年、脳溢血でなくなっちゃったのね。
73歳だったんだけど、まだ若かったし僕も安心しすぎていた。
もうある10年も20年も生きていると思っていたのに、もう少し早く気がついていればよかった。

このロボがね、ホントよく寝るんだ。
すぐ寝ちゃう。
っで、なにが良いって試験の監視できていて寝ちゃう。
ロボが答案用紙を持ってきたら、後ろのほうで静かに「やったぁ」って手を挙げていたからね。
ロボが試験官の時はうちのクラスの平均点が上がっていたという・・・

っで、亡くなるまでによくクラスの皆で集まって飲んだりするんだけど、この時もロボは酔うとすぐ寝ちゃう。
そして毎回酔う前にロボは聞いてくるの。
「『木根川橋』のあの最後に寝ちゃう先生」の事を聞いて来るんだ。

(甲高い声で)「おーい、佐田。ちょっとこーい」
「なんだよ、今こっちで話して・・・」
「いいからこっちにこい」
ああ、もうロボ酔いが回ってきたな。
ってんで、行って「なに?」
「いやな『木根川橋』って曲知ってるか?」
「ああ、あれは俺が作ったんだ」
「そうそうその『木根川橋』な」
「うん」
「あの最後に寝ちゃう先生いるだろう?」
「そういるねぇ」
「あれ、よくぞ寝てくれたよな」
「寝てくれたネェ」
「あそこで先生は寝てこそ、あの歌はしんみりするんだぞ。よくぞ寝てくれた」
「そうだねぇ」
「ところでな」
「ん?」
「あの先生は俺か?」
「そうだよあれはロボだ」
「そうか俺カァ。お前ほんと細かい所まで見ているよなぁ」
って寝ちゃうんです。

それで帰りは高橋が送るんですが。
高橋って知ってる?同級生の。
(会場笑い)

高橋はネェ、良い男でした。
「でした」じゃねぇな。
良い男よ~。目がクリクリッとしてかわいい。ってどうでもいいんですが。

それで最後にあったのが俺と、送っていった高橋ですが。

それでロボは子供が好きだったんですね。
学校を辞めても家で塾をしていたそうなんです。

それで『木根川橋』がお気に入りだったみたいで、いつも自慢をしていたらしいんですね。
でも子供に言ってもわからないから。
ダスキンのおじさんなら判るからね。

その親がちょうどわかる世代で、「さだまさしは私の教え子なんだ」って話したら、親が
「きゃー、先生すごーい」って。

っで、毎年コンサートに奥様方引き連れて来てくれるのね。
そして楽屋にみんな20人だか入れちゃって。
いろんな匂いしてた(笑)

長崎に中華料理屋の兄貴、って年上だから兄貴って慕っているんですけどね。
かれ中国人なんだけど、生まれてからこっちにいるから。
っで、電話がかかってきて「王ジャパンが勝った、勝った」
ってうるさいのよ。
じぶんが王って名前だからって。

っで、彼があるとき僕に言ってきた事があって。
「佐田さん、「親孝行は生きてる間にしろ」って言葉あるじゃない」
「そうだねぇ、「墓に布団はかけられぬ」って言うしね。」
「でもねぇ、あれは違うよ。「親孝行は生きてる間にしろ」って言葉、あれは違うんだな」
「えっ、どういうこと」聞いたの。そしたら、
「親は生きているうちじゃ駄目だ。元気なうちに親孝行しないと駄目なんだよ。親が元気なうちに親孝行をしてあげてね。」

コンサートをしていると、毎回同じ歌を歌うっていう事はしないんですね。
同じ歌でもいいけれど、僕が飽きちゃうし。
でも、後から気がつくことが、あの時なぜ『木根川橋』を毎回歌ってやらなかったんだろう。
って、いまさらながら気がついてね。

(この後『木根川橋』を歌う)

毎年、長崎でチャリティコンサートをやっていたんですが、今度で20回になります。
しかし、今回で一応最終回です。

というのは、20回をやっちゃつたら、30回もやらなくっちゃでしょう。
そうすると続けられるかな。それだけの力が残っているのか。
アレを始めたのは金も無い苦しい時ですが、何のためにやっていたのか。

それを知るには一旦離れてみる事なんです。
もし何かを伝えたかったら歌にすればいい。

それで毎回加山雄三さんが無償で出演してくれるんですが、あの曲とともに出てきたときは涙が止まらなかったね。
笑顔で楽しいんだけれど、泣いちゃう。
ホント、尊敬する人なんです。

色々な物が心に鬱積していたんだと思う。
色々僕も挫折したことはあるからね。
そう、何度となくしているな。

東京にいて当時電話が10円でかけられたんです。
しかし、遠距離がバカみたいに高かった。
10円で2、3秒かけられたんじゃないかなぁ。
それで金が無くなって苦しくなると実家にSOSをするわけです。
2、3秒しか無いから、「カネ・カネ・カネ」
これが精一杯。2、3秒しかないですから。
親もよくしたもので、身内とかになけなしのお金を借りてきて送ってくれていたんでしょうね。

それである日「カネ・カネ・カネ」て電話をしたら、弟が出てきたことがあったんです。
(さださん、手で目を覆う)
親が旅行だかで家にいなくって、弟は当時小学生だったんですが、彼なりに「どうしよう」って悩んだんでしょうね。

何日経っても仕送りは来ない。
そしたら弟から手紙が来て、汚い字です。
「これで暫くもたせろ」
って、クシャクシャの500円札を3枚一緒に入れていたんですね。

弟が少ない小遣いからコツコツ貯めたお金なんでしょう。
弟の事だわかっている。。。

もう2,3枚あったはずだ。。。

しかし、使えないんですねぇ。弟が貯めたお金。
でも使わないと死んじゃうんでね。
その時救世主。日清ヌードルが当時19円で新発売。

これで500円なら何個買えますか?
(前のお客さんに聞く)
なに、『脳力ゲーム』してないの?

あれ、子供がしていたんで「貸せ」ってやったんですよ。
あれ腹立つねぇ。

73歳だって(笑)
(会場笑い)

それで500円で飢えをしのいでいるんですが、どうにかしてこの金を何十倍にして弟に返してやらないといけない。

・・・

次の500円札はあっという間に消えました。
最初が「パ」最後が「コ」のせいです(苦笑)

どうしても貧乏人はギャンブルに走る。
「ご利用は計画的に。」って、計画的に出来ないからお金を借りるんです。
「契約内容を良くご確認ください。」って、読んだら怖くなって利用できないんです。
当時、こういうの無かったからネェ。
ある中でするしかなかったから。
だからうまくやっていけたのかも。
当時にあったら借りていたのかなぁ。

最後の500円札ですが、使えないんです。
大切においておこうと本に挟んで大事にしていたんですね。

でも貧乏が憎い(笑)
挟んでいるのを忘れて、古本屋に売っちゃうの。数十円で。

貧乏神は寂しがり屋で、いるところに集まってくるからね。
お金も寂しがり屋ですぐ他の所に飛んで行っちゃうから。

音楽を目指して東京に行ったのに、音楽高校に落ちたんですからね。
っで、仕方ないから別の國學院高等学校に入学するんだけど、バイトをするようになるのね。

っで、大学も行くんだけど、家計の関係で難しいという事で、バイトもするようになるのね。
もう仕送りも断っちゃったしね。

バイトは食べ物屋で、刺身とか何でも出るような店だったんだけど、なんでも出来るから可愛がられた。
19・20とそうこうしていたんですが、朝にも別のバイトをするようになる。
二十歳も過ぎるとお客さんからお酒も貰って飲む。
この時になると不思議な事に学校にも行かなくなってしまいましたから。
朝のバイトに行って、夜居酒屋でバイトをする。夜はお客さんがいる間開けていたから1時2時。
片づけをしていたら3時に帰る。それからアホみたいな歌詞を延々書いていた。
って、今だって代わった事じゃない。アホみたいな詩なんですが。
っで、とうとう肝臓をやられるわけです。

医者はこういうときにはっきり言うね。
「このまま仕事を辞めないと死にます」
ばかやろう。辞めたら辞めたで死んじまうんだ。

こうして実家に帰る事になるんですが、実家はありがたい物でね。
普通に迎えてくれるんです。

最初駅に降りる時足が震えましたね。
東京に行くときにここから出発しているんですからね。
音楽家になるって、音楽高校に落ちちゃっているんですから。

でも「おかえり」って普通に迎えてくれて「これからご飯作るから」
とてもありがたかったですね。

これで音楽から離れてくらすのかぁ。
って考えていたら吉田も思うところがあったんでしょう。
吉田も長崎に帰ってきていた。
ここで運命的な出会いがあったわけです。
「グレープ」の結成です。

吉田はね、顔が良かったから。
僕は歌には別に関心は無かったんですよ。
音楽になにか携わっていられれば幸せだった。

そしてだれもグレープなんて売れないだろうなぁと考えていた事でしょう。

大ヒット。

お金がジャンジャン入ってね。
しかし、もともと貧乏人気質だから、使わないと無くなると思った。

「精霊流し」の印税でお墓を立てた。

この選択は間違っていないと思う。
「精霊流し」でお墓ですから。
(会場笑い)
その後が長崎に島を買いましてね。これも間違っていなかった。
今でも浮いていますよ。島は無くなりませんからね。

そしてその後のヒットで「さだ企画」って会社を作った。
コレで一気に無くなった。

そして何を考えたのか中国で映画を作った。
当時で25億。個人でですよ。
しかも当時の25億に利子がついて35億。
きりが良いから、人には40億って。

こんなに困難があってよくいままでやっていけたと思う。
これもひとえに皆さんのおかげなんだろうと思います。
「さだまさし」というものを作り上げてくださったんですから。

「ひもじい」って言葉は今も生きているのかな。
「お腹すいた」は言うか。
でも今は裕福になりすぎたんだね。
個別に与えられるものね。
「いらなーい」って言えば捨てられるんだからね。

個別格差って言うものが今みたいに無かった。
何億円って持っている人もいれば、国民保険が支払えない人もいる。

僕らの時はそれば無かったからね。
お腹いっぱいになれば幸せでしたから。
みんな一律に貧しかったから。
しかし、同じ幸せを共有できたんだなぁ。

なんで裕福なのに満足できないんだろう。
なんでお金もあってご飯も食べられるのに満足できないんだろう。
それはみんな裕福になりすぎて、「感謝する」っていう事が無くなっているのかもしれないね。

幸せは真っ直ぐ歩いていけばたどり着く物ではないと思います。
幸せはみんなポケットの中に持って生まれてくる。
みんな持っている物なんですね。
でも、心の「不平」「不満」をポケットにしまい込み過ぎちゃって、奥にある「幸せ」を取り出せなくなっているんだなぁ。
そうやって、奥からやっと取り出した「幸せ」を天日干ししてすかして見ないといけない。

僕は神様が「若いときに返してやろう」って言っても、あの貧しい時に帰りたくは無い。
嫌ですよ。あの苦しみは初めてだから乗り越えられた。

そんな自分でルール作って自滅するような事はしない(WBCのアメリカが自分の所の有利にルールを作って自滅した件をもじって)

もし分かっていてあの時に変えるんだったら、自殺していたかもしれない。
いや、僕はね、自分では死なないって心に決めているんです。

でも、時に苦しい時考える時ってあるじゃない。
自殺なんてしちゃダメですよ。
でも、自分では死なない。

むかしねぇ、子供の時にスイカが腹いっぱい食べたくってネェ。
ウチはスイカがあったら、縦に一回割って、それを横にまた切って、そうして全部格子状に切るんです。

弟はB型だからかまわず真ん中の大きいのを取る。
僕はA型だから、端から取る。
そこに父と母が取るんですから、アジアの混乱にアメリカとロシアが介入するような物ですよ。

この時、お嫁さんは「スイカが嫌いな人と結婚しよう」と考えていた。

っで、今の嫁さんと結婚する前日に聞いてみた。
「え~つかぬ事をお聞きしますが」
「なに?」
「その~スイカは好きかね?」
「ああ、私、アレだけは駄目なの~」

この女しかいないと思った。
(会場笑い)

しかし、その時は考えもしなかった。
スイカ嫌いな女性と結婚すると腹いっぱいスイカを食べられると思っていた。
しかし現実はそうではない。

スイカが嫌いな女性と結婚すると、スイカは食卓には並ばない。
(会場大爆笑)

それから何年かしてね、この話を別の所でしたら嫁さんの友達が聞いていて
「スイカぐらい出してあげなさいよぉ」
って、言ってくれたみたいでね。
それからスイカが出てくるようになった。

人生言ってみるもんだなと思った。

今年も3月が終わりに近づいております。
お正月にたてた抱負を3月にして挫折しそうなあなた。
年度始めという言葉もありますから、また4月から頑張ってみてはいかがでしょうか。
それで駄目なら、年度収めもある(笑)

さだまさし – Wikipedia

さだ まさし(本名・佐田雅志、1952年4月10日 – )は、長崎県長崎市生れの日本を代表するフォークシンガーの一人で、シンガーソングライター、ラジオのパーソナリテイー、小説家、映画監督。國學院高等学校卒業、國學院大學法学部中退。長崎県民栄誉賞授賞。長崎市栄誉市民。長崎ブリックホール名誉館長。諏訪市原田泰治美術館名誉館長。かぼす大使。
ファンとスタッフの間では「まっさん」という愛称が使われている。画家原田泰治との交友から、長野県諏訪市に居を構えているが、近年は、子供の教育の都合上、諏訪にいないことが多い。
さだまさしの弟分としてチキンガーリックステーキが居る。また、妹の佐田玲子も歌手。
趣味:ゴルフ

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EXCERPT:
どうも~、さだまさしでございます。
いや~、なんだか爽快な、なにか吹っ切れたような気分でございますね。
日本も、”WBC”っていうんですか?
日本の野球チームが優勝してナンバーワンになったわけですが。

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「さだまさしコンサート【2006】」への4件のフィードバック

  1. 歌う時間より長いかも?!な噺家さださんのトーク
    良くぞここまで覚えて来たねっ♪ヾ(>▽▽<*)ヽ

  2. Tomoは、勉強とか名前覚えるのは嫌いなんですが、こういう面白いお話はメモとか無しで覚えられるんですよ。

    前の時よりキーワードがしっかりしていたからそこから思い出せました。

    さださんの噺歌集大全が販売されるそうなんですが、買ってしまおうかと。

  3. あなたもマナーの悪いファンの一人かも。
    現行のコンサートツアーの内容はトークも含めてツアー終了後まで公開しないように、と公式サイトにはお願いが書いてあったりします。

  4. なるほど。
    Tomoも少し考えがありませんでしたね。
    では『さだまさしコンサートツアー「とこしへ」 』は4/21が最終ですから、それまで一時観覧出来ないようにしておきますね。
    栃木の御節介さん御指摘ありがとうございました。

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